September, 2009
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英語に関心のある人なら誰でも、日本の英語教育はまずい、と思っています。しかし、どうまずいのでしょう?「あんなにやっているのにしゃべれない」とか「読解ばかりやっている」「大学入試が難しすぎる」という意見は正しいのでしょうか?
私たちは逆の意見です。もちろん日本の英語教育がうまくいっているというのではなく「まずい」のは、日本の英語教育の「メソドロジーの欠如」と「訓練の甘さ」 のせいだ、という考えです。「あれしかやっていないから内容のあることがしゃべれない」「読解の方法論がないから進歩しない」「大学入試程度の英語が読めない のはただ半端な力しかないから」ということなのです。

では、半端でない力をつけるにはどうしたらよいか?
ひとつは語彙の問題があります。もちろん数は多いに越したことはありません。語彙数が一万に近づいたあたりから、英語を読むのは非常に楽になっていきます。また、読む、というのは経験がものをいう行為で、 本をたくさん読むにつれて次のものがますます楽に読めるようになっていきます。こういった積み重ねの重要さはいくら強調してもいいくらいなのですが、しかし問題はそれだけではありません。
第二言語として英語を使う、というとき大切なのは、子供のように英語をしゃべれるようになることではなく、教養ある大人として、言葉を意識的に使えるようになることだと思うのですが、こういう教育が(実は、英語ばかりでなく第一言語の日本語でも)学校ではほとんどなされていません。
具体的に言います。学校で例えば、カテゴリーという概念を教えるでしょうか?パラドックス、アイロニーは?因果関係、message(内容)とexample<例)の関係、pararell structure(並列構造)といったことを意識化することがあるでしょうか?おそらく答えはノーだと思います。学校ではごく基本的なロジックもレトリックも教えないのです。
これでは言語を意識的に使うことが出来ません。
 
インプットされた言葉を無意識領域から意識領域へと引き上げることによってはじめて、自分でも再構成することができる。それをしない人は模倣しか出来ないのです。ところがそういうことに、学校も社会も気づこうとしない。
その結果、この国の言語状況は非常に無教養になっています。それはテレビのしゃべり手の言葉遣いや、政治家のコメント、市役所等の広報、公共の場所のアナウンスや表示など、あらゆるところに現れています。

しばらく前には盛んに耳にした「国際人」という言葉をあまり聞かなくなってしまいました。むしろこの国が、国際化とは逆の方向に行っているようで残念です。ファッションとしてこうした言葉ばかりが一人歩きして、実体が明らかでなかったせいでしょう。
「国際人」の意味は何か?私たちはひとつの答えを持っています。国際人とはCultural Literacy(文化的教養)を持った人間のことであると、世界の多くの人が共有している考え方の筋道は、必ずしも日本流と一致しないことがある、ある出来事に対する理解がまったく違うことがある、「人間なんてみな同じ」ではない、といったことに気づき、それに対処するには、広義の「教養」が必要なのです。
こういう教養は、英語を本格的に学習することで獲得でします。

 
英語が国際化の手段であるというのは事実です。しかしそれは、本当にマスターするまでやれば、という条件付きです。大学受験を最終目標として、最低限の単語を覚え、文のパターンと「訳し方」を覚えて英語を日本語化して理解する、というやり方では日本語の枠を越えることは出来ません。日本語と、日本文化の枠を越えるのに必要なのは、ロジックとレトリックと、質の良い知識なのです。